2005年お山歩A
山名 山域 山行形態 日付 備考
城の砦(267m) 安蘇山地 低山ハイク 05.4/9 足利尊氏重臣の南遠江守宗継が築いた南北朝時代の山城址

山頂は南北朝時代の山城址
城の砦(名草城址)
城の砦(じょうのとや)と呼ばれる名草城址は足利尊氏の重臣南宗継が築城した南北朝時代の山城址で、南氏一族の菩提寺である清源寺(足利市名草中町)の裏山のテッペンにある。

鎌倉末から南北朝期の武将、南遠江守宗継(?〜応安4年・1371)は足利尊氏の有力な家臣の一人で、終始尊氏と行動を共にし、『太平記』や他の文書等に、建武3年(1336)九州多々良浜合戦・湊川の合戦・比叡山攻め、貞和4年(1348)四条畷の合戦などに参陣した事が記述されている。尊氏から非常に信頼され、観応3年(1352)の武蔵野合戦・鎌倉合戦の前後には尊氏に近侍して執事のような役を務めていた。(尊氏の執事・高師直が観応の擾乱で観応2年(1351)に謀殺されたためのピンチヒッターだろうか?)

観応3年(1352)の鎌倉合戦の後、南宗継は祖父・頼基の時代に領地であった足利庄丸木郷(名草)を足利尊氏から拝領し、旧領の紀州(和歌山市名草地区)から移住してきた。『名草』という地名は、宗継が故郷の紀州名草を懐かしみそれまでの「丸木郷」から改めたものと伝えられている。

また、現在では輸入物に押されて下火になったものの、昭和50年頃まで盛んに栽培されていた、名草特産の生姜は、宗継が故郷紀州の生姜栽培を持ち込んで広めたものだという。試しにGoogleで「和歌山市名草地区」で検索してみたら、和歌山市名草地区でも生姜が特産品であることが判明し、ちょっとビックリ。宗継生姜伝説は俄然信憑性を帯びてきた。

城の砦へは、延文2年(1357)南宗継が一族の菩提寺として創建した清源寺から登る。清源寺門前から右手に林道を登って行くとじきに山道となる。朽ちかけた案内板が落っこちていたので木の上に引っかけておいた(たぶんまた落っこちている)。山道に入るとコースの下半分は手入れの悪い荒れた杉の植林地で、折り重なった倒木を跨いだりくぐったりとかなり歩きにくい。植林地を抜けると密度の濃い笹藪に半ば埋もれかけている杣道で、ブッシュもきつくて相当鬱陶しい。少しは刈り払いをしないと、近いうちに藪に埋もれて道がなくなってしまうだろう。尾根に出て右手にコースを採り、ひと登りで頂上。

今回は足利の歴史学の泰斗・前澤輝政先生が主催する歴史都市研究会の歴史見学会で、参加者は中高年の「高」の方の方が多く、歩程は短いが道が荒れていたので皆さん相当難儀した様子だった。実はかれこれ20年近く前、管理人は、ヒロスエやスーフリで著しく看板に傷がついた某大学(綿矢りさが汚名挽回してくれてひと安心)の学生時代に、前澤先生から考古学概論の講義を受けていて、長いブランクを挟んで、因縁あってまた前澤先生の薫陶を受けているという訳。

城の砦は、本丸址・土塁・帯郭・堀切・尾根上に築かれた階段状の腰郭や武者走など、山城の城郭構成の主要部を比較的良く遺存していて、特に本丸址に巡らされている土塁はそこそこ状態も良く感動物ではあるが、いかんせん砦に毛が生えたんだか抜けたんだかといった程度のマニアックな遺構なので、資料と首っ引きで位置確認をしなければただの自然の山にしか見えない。まあ、そのマニアックさが私の琴線を刺激するのではあるが。

下山後に見学した清源寺と臥竜院の満開のシダレザクラも非常に素晴らしく、実に内容の濃い「お山歩」?であった。

朽ちかけた案内板 カタクリの花
手入れの悪い杉の植林地を登る コース途中から見た城の砦山頂部
頂上の本丸址で資料を見ながら遺構を確認 ツツジの花

城の砦(名草城)
足利尊氏の重臣南遠江守宗継が築城した南北朝時代の山城址。本丸址・土塁・帯郭・堀切・尾根上に築かれた階段状の腰郭や武者走など、山城の城郭構成の主要部を「やや良好」に遺存しているが、素人目にはただの山にしか見えず、相当なマニア向き。山麓には築城者の菩提寺(清源寺)と館跡(金蔵院)もあり、歴史的な価値は高い。
名草城略測図(赤文字は管理人が記入) @本丸址内部から虎口(城の出入り口)
A堀切(空堀) B階段状の腰郭群

清源寺 足利市名草中町
城の砦の築城者である南氏一族の菩提寺。枝垂れ桜が見事でした。
城の砦へは清源寺の裏手から登る 実に見事な枝垂れっぷりのシダレザクラ

臥竜院 足利市名草上町
非常に雰囲気のあるロケーションに優れた山寺で、3本の枝垂れ桜の老木は実に壮観。
山寺の風情満点 一見の価値は充分あるシダレザクラの老木です

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