2005年お山歩@
山名 山域 山行形態 日付 備考
彦間浅間遊歩道
(345m)
安蘇山地 低山ハイク 05.3/2 石仏・庚申塔群、ミニ湿原、3時代トンネルと見所多く、そばも旨い

庚申塔群とザゼンソウと3時代トンネル
彦間浅間遊歩道
彦間浅間遊歩道の麓にある農村レストラン「憩い館」には頻々と出かけて手打ちそばに舌鼓を打っているのに、そういえば憩い館の裏山の浅間山には15、6年前に一度登ったきりだった。横着して大小山ばかり歩いていても「お山歩」更新のネタにならないので、久しぶりに彦間浅間遊歩道を歩いてみた。

憩い館の入口にある中央登り口には、県道を拡幅した際に石仏群を整理して集めた300基程の庚申塔や石仏が山道沿いの斜面にびっしりと並んでいる。ここ数年で遺跡や遺構が急激に大好物になってしまったので、素通りすればほんの5,6分くらいの距離に、写真を撮りながら、のっけから小一時間程引っかかってしまった。無量寺址を過ぎると石仏群もなくなって自然とペースが上がる。

途中、子育観音を過ぎひと登りすると不動展望台で、以前はなかった東屋があって小休止。展望台の割に展望はあまり良くない。この先頂上までの間は、大岩を配した露岩帯で、僅かの区間だが山登りらしくて楽しい。浅間山頂上(345m)は南東方向への展望が開けていて、須花坂峠と足利市名草方面を眼下に見晴らせる。

道なりにだらだら下って行くとじきに名草山(258.3m)で、樹林の中で展望はない。名草山を僅かに下ると鎧地蔵尊址の石碑がある。

戦国時代、足利領主・長尾顕長と佐野領主・佐野宗綱は、管理人の家がある現在の足利市富田地区と佐野との境界を巡って、管理人の家の近所で度々戦を繰り返していた。和平交渉に赴いた足利方の使者を佐野方が帰り道で襲って殺害したため、境界争いは報復戦へとエスカレート。足利方は、佐野配下の彦間城主兄弟を騙し討ちして彦間城を奪ってしまった。このことに激怒して短気を起こした佐野宗綱は、天正13年(1585)雪の降る元旦未明、家臣の制止を振り切って手勢も率いず単騎で出陣。佐野方の反撃に備えて守りを固めていた足利方に山の上から鉄砲で狙撃され、須花坂で28歳で討ち死にしてしまった。

鎧地蔵尊は142年後の享保12年(1727)に、宗綱の供養のため佐野家の家臣により祀られた僧衣の上に鎧帷子を付けた姿の地蔵尊で、現在は名草の金蔵院に大切に保管されている。

鎧地蔵尊址から少し下ると須花坂湿原。かなり傾斜のある狭い谷地で全然湿原っぽくはないのだが、ちょうど折良くザゼンソウが咲いていた。

須花坂湿原から手摺りのある木製の階段道を下ると、当地では心霊スポットとして有名な大正時代の須花トンネルがある。ちょっと前までは歩道として使われていたのだが、肝試しのDQNなヤングが中に入れないように??現在は金網で閉鎖されている。

真ん中に現役の昭和・須花トンネルを挟んで、反対側には明治時代に上彦間村戸長田島茂平が全財産を投げ売って完成させた手掘りの須花トンネルがあり、3時代のトンネルが並んでいるのはかなり珍しいとか。

彦間川より浅間山 巨大な庚申塔がある中央登り口
石仏や庚申塔が約300くらいある 無量寺遺跡
子育観音付近から浅間山 不動展望台・不動尊の祠と東屋がある
浅間山頂上から足利市名草方面を望む 鎧地蔵尊址
須花坂湿原 ちょうどザゼンソウが咲いていた

明治・大正・昭和の3時代須花トンネル (明治トンネル)
当地では心霊スポットで名高い大正トンネル 現役の昭和トンネル
手掘りの明治トンネル 案内板(トンネル部分)

鎧地蔵尊 足利市名草中町 金蔵院所蔵
ご住職の話によると、寺に移す前は石の宮もバラバラに崩れて散乱しているような状態で、場所がお寺の所有地の中だったので、何十年か前に先々代のご住職が盗難や散逸を危惧して山から下ろしたとのこと。
石の宮 鎧地蔵尊・像高約40cmくらい

お山歩日記 トップへ戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送